今回は新潟県新発田市にある、JR羽越本線・白新線の新発田駅前のモニュメントを紹介します。

この駅は西側にのみ駅舎があるのですが、まずは連絡通路を超えた反対側のロータリーにあるものから紹介します。ここには上のような石碑とモニュメントがあります。

まずは後ろのモニュメントの方から。法被を着た子供たちの像の上に、金魚のモニュメントがあります。この金魚は「金魚台輪」というもので、
こちらの記事によれば、新発田の夏祭りで曳山として使用されるものがモデルになっているようです。この金魚は張子でできており、中にろうそくをともして灯篭として使用されるものとのことですが、なんとなく
>山口県柳井市の「金魚ちょうちん」に似ているところがありますね。

そしてその前に設置されている石碑は、新発田駅東土地区画整理事業の竣工記念碑です。裏面には施工期間が書かれていますが、「昭和52年度~平成8年度」とあります。西暦に直すと、1977年から1996年なので、19年もかかったことになります。区画整理ってそんなに長期間かかるものなのでしょうか?なにか特別な事情があったのかな・・・。ちなみに題字は”古山和風”という方が書いたもののようですが、どのような人物かよくわかりませんでした。地元の方でしょうか?

次は西口の斜め前にある、新発田駅前公園にあるものを紹介します。公園自体は広いのですが、今回は駅前のブロックのところものを紹介します。ここには胸像が1つあるのですが、タイトルとして「大倉鶴彦翁壽像」と書かれていますし、裏面の説明にもその名前が書かれています。一方ですぐ近くの説明の石碑には「大倉喜八郎像」と書かれています。大倉喜八郎は戦前の大倉財閥の創始者で、今も流れとしては大成建設やホテルオークラなどが残っていますが、この新発田市は大倉喜八郎の出身地であり、この場所も大倉製糸工場があった場所であることから、石碑が設置されることになったようです。肝心な名前が違う件ですが、喜八郎は狂歌(短歌の一種)の創作にも取り組んでおり、その時の名義として「鶴彦」を使用していたのだそうです。ちなみに幼名は「鶴吉」だったそうです。なぜ題字に「鶴彦」を選んだのかは気になるところですね。

次は胸像の後ろにある「大倉翁之墓銘」と題された古い石碑です。説明によれば1916年(大正5年)に大倉喜八郎が設置した、祖父の「定七」を称えるための石碑なのだそうです。この石碑は2つ作られ、1つは新発田市東公園に、もう1つは東京都港区の”大倉集古館”に設置されていたのですが、ここのものは大倉集古館改築時に移設したものなのだそうです。喜八郎自身も功績を残していますが、称えられている人物が人(祖父)を称える石碑を設置していたというのは興味深いところですね。

次は喜八郎が詠んだ狂歌の石碑です。「わたりきり うき世の橋の あとみれば 命にかけて あやうかりけり」と書かれているのですが、この歌は本来江戸時代の書家である本阿弥光悦の詠んだものなのだそうです。喜八郎が”書いた”この歌を石碑にしたのだとか。

最後は一応石碑があったので・・・記念植樹です。松かな?大倉喜八郎関連ばかりのものの中、記念植樹の石碑だけはちょっと浮いた感じになっちゃっていますね。
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- 2020/05/03(日) 03:00:00|
- 駅前モニュメント
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