
今回は駅ホームの観光案内や駅前の看板に記述があるとおり、『奥の細道』の最北の地である、秋田県にかほ市(旧象潟町)のJR羽越本線象潟(きさかた)駅前のモニュメントを紹介します。

まず駅舎を出て左手にある「天然記念物 象潟」という、文化財保存委員会によって設置された石碑です。その横には「象潟の今昔」という案内板がありました。それによれば、象潟は町の名前でもありますが、かつては大小百数十の島がある入り江でした。しかし1804年(文化元年)に発生した地震による隆起でここが陸地となり、水田の中にかつての島々が点在している風景になったようです。

続いては駅舎を出て右側の駐輪場・広場にある、蚶満寺所蔵の芭蕉直筆の『象潟字詠懐紙』を拡大コピーした「芭蕉文学碑」というタイトルの石碑です。裏にはちょっとした説明がありましたが、それによれば芭蕉が象潟を訪れたのは元禄2年(1689年)のことであり、当時はまだここは陸地になる前の、海の中に小島が浮かぶ景色でした。これについて芭蕉は「江の縦横一里はかり、佛松島にかよいて又異なり、松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し寂しさに悲しみをくはえて地勢魂をなやますに似たり」と『奥の細道』で記述しているようです。松島が陽ならば、象潟が陰・・・ということか?(適当)。

続いては上の石碑の少し奥にある、「奥の細道記念切手碑」です。これは1987年(昭和62年)に当時の郵政省から発行された「奥の細道シリーズ郵便切手」の当地のデザインのものを、発行の記念として翌年に石碑として設置したもののようです。ちなみに設置当時(1988年8月)では、世界一大きな切手碑だったようですが、今はどうなんでしょう?ちなみに個人的に説明文の中で目を引いたのは、冒頭の「俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の遠大な旅に出発してから
昭和六十四年は三百年の記念すべき歳に当たる」というところ。出発日は旧暦で3月、新暦で5月なので、実際には三百年を迎えた際には既に’平成元年’になっていました。この石碑を設置した当時は、昭和の時代が終わるなんて思いもしなかったんでしょうねぇ・・・

おまけ。これらの石碑の近くには、岩を掘って作られた灰皿がいくつか設置されていました。でもこれって吸殻をどうやって回収するんでしょうかね?バキューム方式?
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- 2015/07/28(火) 18:00:00|
- 駅前モニュメント
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| コメント:2
> 切手の記念碑
> 初めて見ました(^^ゞ
> なので珍しい~と思ったのですが
> 意外に 他でもあるものなんですかね?
>
> 岩の灰皿も 面白いです(笑)
> カタばみさんの疑問に私も一票~
> 吸殻を回収してるとこを
> 見てみたいなぁ
こんばんは。
切手の記念碑は他では見かけたことが無いですね。
切手を記念碑にするならその大元を記念碑にしてしまうのが、
世間一般の考え方だと思います。
この吸殻はまったく謎でした。特に他に開けるところとかもありませんでしたから。
ひょっとして手で取らなければいけないとか・・・
もしそうなら大変ですね(;^^)
- 2015/07/29(水) 22:04:04 |
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- カタばみ #-
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